平成24年9月10日、午後4時35分、享年94歳。田中春雄会長が、老衰のため、自宅で家族に看取られながら、あの世へ旅立ちました。
田中会長は、大正8年2月、三重県四日市市水沢生まれ。幼少の頃、父親が商品取引に手を出して莫大な借金をつくり、総ての財産をなくした上、父親も早くに亡くなりました。その為、とても苦しい生活に追われる中で、地元の農業高校を出て、国鉄に勤めました。国鉄では、踏切番、車掌等をしていたそうですが、とても勉強好きで、常に本を読んでいたようです。
その姿を見ていた上司が、そんなに勉強が好きならばと、東京へ転勤して大学に行くことを勧めてくれたことで、中央大学の夜間部へ通うことをができました。東京では、国鉄本社の物資部勤務となり、売店の品物の購入担当をしていたようですが、親父は、絶対にピンハネやネコハバをすることなく、真正直に仕事をしていたそうです。その頃、名古屋での仕事も増え、名古屋市場にも出入りするようになりました。その誠実な仕事ぶりが、当時、多治見、恵那、中津川で東濃魚菜という市場を経営していた中山秀次郎の目にとまり、親交を深めていきました。
終戦後、恵那で砂糖を扱っていたお店が3軒あり、砂糖部門だけを統合して丸三砂糖合資会社を始めることとなりましたが、その会社を担当する人がいませんでした。そこで、出資者の秀次郎が、春雄に、娘の政栄と一緒になって仕事を始めることを勧めたところ、春雄は、母親への仕送りで精一杯、何も財産がないがよいか、ということを条件に、一緒になったそうです。結婚の結納金も秀次郎から借りての結婚式だったそうです。
昭和24年、夫婦二人で仕事を始めましたが、砂糖だけでは生活ができないために、砂糖と共に使う和菓子材料も扱うようになり、中山商店の基礎を築いていきました。その頃の生活はとても苦しく、うどんが主食で、夜には、私たち子供も新聞紙を利用した袋貼りを手伝わされた記憶があります。
それ以降、中山商店は、学校給食、外食産業へ販路を広げ、一方、和菓子材料に使う包装袋、ラベルを自社製造することとなり、現在の花・野菜分野への進出となりました。そして、包装袋への印刷技術の応用から、プリント配線分野へ進出することとなり、東海神栄が生まれ、恵那に進出したリコー時計から文字盤の印刷依頼を受けて中山理研が生まれ、今日のナカヤマグループとなりました。
田中会長を見ていると、(1)勉強好き (2)誠実 (3)とにかく熱心 (4)相手の気を見ることがバツグン。そして何よりも、自分も楽しむが、相手も楽しませることに秀でていました。そのことは、中山道広重美術館、桜百選の園、蓮の植裁、梅露庵等に関わった地域貢献によく現れているように思います。田中会長は、自らが地域の人達と共に、その事業に参加し、現地でのふれあいを楽しみに寄進を続けてきました。
単にお金儲けがうまい経営者と思われるのではなく、後の世の人達が喜んでくれる地域づくりに、お金も時間も使っていきたいと、自分の思いを出し切っての人生でしたので、人生に悔はないと、晩年、よく話してくれていました。
今時分は、あの世で、女房の政栄さん、そして浮世絵の安藤広重さん方と、たくさんの報告とともに、楽しく語り合っているものと思われます。