1991年11月23日の鍵山秀三郎相談役との出会いから、私の第二の人生が始まりました。
当時、バブル崩壊で日本の産業構造が大きく変わり、民需品の大半が中国に移管されるこことなり、東海神栄電子工業の民生品基板(オーディオ関係)の受注が急落していきました。その為に多くの同業者はリストラ、廃業に追い込められ、当社も打つ手がなく悩み苦しんでいた時に、偶然にも、鍵山秀三郎相談役との出会いがありました。
その時、鍵山相談役から「私は、30年間、掃除をしてきました、お陰で人生も会社も大きく変わってきました。」と自己紹介された一言が、まるで稲妻に打たれたように私の体を揺り動かしました。
翌朝から近くの市神神社境内の掃除を始めましたが、数か月が経ったころからまるでテレビドラマのように、次々に変化が起きていきました。境内を美しくしていくことで本来の神社らしさが蘇り、遊びに来る子供たちがゴミを捨てなくなり、壊れている遊具を誰かが直したり、社殿が建て直されたりしていく様子を見ていて、これまで経験したことのない感動を覚えました。
掃除の素晴らしさを体験した私は、鍵山秀三郎相談役にお願いして1993年11月に、日本大正村の駐車場トイレを使って「第一回掃除に学ぶ会」を35名の仲間で開催しました。そこで、汚れたトイレを磨き美しくなっていくことに感動した人たちが中心となって、翌年春にも開催、それ以降、定期的に開催することとなり、会を重ねる度に参加者が増えていきました。そして、その感動を自分の地域に持ち帰って開催する人たちが増え、全国各地へ、海外へと広がっていきました。
また、会社でも積極的に掃除に取り組むようになり、職場の整理整頓は勿論のこと、社内の人間関係もよくなり、会社が本来持っていた良いところが発揮され、民生品から産業機器対応製品への転換も急速に進み、業績も回復していきました。そして、その様子を知った社外の人たちが掃除見学に訪れるようになりました。
この掃除の広がりは鍵山相談役を中心にしてなされたことですが、掃除を通じて場の持つ力を蘇らせる社会現象が各地で起き、会社が、学校が、地域がよくなっていく事例が多く生まれてきました。こうして鍵山相談役の下で、この掃除の活動に携わってきた喜びは、何事にも代えられない人生の財産となっています。
また、何よりも掃除実践の道場として「市神神社」が得られ、この三十一年間、継続して境内の掃除を続けてきたことで、掃除に対する思いが揺るぎないものになりました。
今年も「恵那で一番美しい神社」を目標に、社員と共に掃除に励んでいきたく思っております。